ASKA21 71号
本質を見誤ったドクターヘリ導入の議論
日本医科大学千葉北総病院救命救急センター
益子 邦洋
アスカ21第70号で述べたように、ドクターヘリの全国配備を目的として発足した超党派国会議員連盟(142名)が平成20年11月20日に設立し、その働きかけにより、「県が負担するドクターヘリ運航費用の2分の1を国が特別交付税で手当てすることを平成20年度から適用する」省令が平成21年3月17日の官報に掲載され、ドクターヘリ全国配備がいよいよ現実味を帯びてきた。
筆者はこれまで、さまざまな機会に、さまざまな地域において、ドクターヘリ事業の効果と必要性を訴え、数多くの関係者のご理解を頂いてきた。しかしながら、その一方で、ドクターヘリ導入への追い風とは裏腹に、ドクターヘリ事業の本質を忘れた議論が医療側、行政側の双方でなされているのを聞き、ドクターヘリ事業が誤った方向に向かうのではないかと危惧している。
そこで今回はこの問題に焦点を当て、誤った一部の現状を紹介すると共に、これを正しい方向へ導くにはどうすれば良いかを考えてみたい。
看過できない議論のうち、医療機関側のものとしては、「重症患者の受け入れ増加は医療収支改善に繋がるから何としても導入すべきである。」、「ドクターヘリ搭乗医師は院内の医師が交代制で担当すれば十分である。」、「ヘリを導入すれば若い医師が集まる。」、「困ったときは他の病院に搬送すれば良い。」といったものである。即ち、自施設の診療スタッフ、診療実績を正しく分析した上で、病院職員に更なる負担を強いるドクターヘリ事業を円滑に実施するために、病院内のハード、ソフトの両面から全面的に見直し、病院挙げて取り組もうという強い意志が、残念ながら感じられないのである。
また、同様に看過できない行政側の意見としては、「他の県より遅れて導入したくない。」、「ヘリさえ導入すれば県民に対する責任は果たせる。」というものである。その結果として、「当該地域には365日ドクターヘリ事業を実施できるだけの能力を持った医療機関がないから、複数の病院でドクターヘリ当番を輪番制で対応させる。」との案が、大まじめで議論されている現実がある。
ドクターヘリの効果は、厚生労働科学研究および認定NPO法人救急ヘリ病院ネットワーク(HEM-Net)の調査研究で明らかになった如く、救命効果、後遺症軽減効果、逸失所得回避効果、入院日数削減効果、医療費削減効果など、枚挙に暇がない。しかしながらこれらの効果は、ただ単にヘリコプターを病院に配備したからもたらされたものでは、決してない。これまで14号が発刊されたHEM-Netグラフでは、毎回、ドクターヘリにより命が救われ、社会復帰した事例が紹介されているが、これは全体の中のごく一部であり、全国的に見れば、実に多くの重症患者が、まさに死の淵から何事もなかったかのように生還して社会復帰しており、これこそがドクターヘリの真髄なのである。言い換えるならば、ドクターヘリは地域住民にとって「希望のヘリ」である。「希望のヘリ」を「希望のヘリ」たらしめているのは、ヘリコプターという機体そのものではなく、時速200kmを超えるヘリの速度に負けないだけの確かな技術と、決断力と、責任感を有するドクターヘリチームの存在であることを忘れてはならない。即ち、医師、看護師、パイロット、整備士、運航管理士の個別能力が極限まで高められ、これが受け入れ病院の診療能力と融合してはじめて、劇的救命例が誕生するのである。
ドクターヘリ基地病院の資格要件としては、救命救急センターとしての受け入れ実績を有すること、救急専用ICU/HCUを10床以上有すること、要請から5分以内で離陸できるヘリポートを有すること、災害拠点病院であること、などが挙げられているが、筆者は、重症患者の初療が救急専従医により行われていること、病院を挙げてドクターヘリ事業をバックアップする体制が取られていること、最終的には必ず患者を受け入れる覚悟があること、の3つが最も重要だと考えている。何故なら、ドクターヘリの出動要請時には脳卒中が疑われても現場へ行ってみたら急性大動脈解離であったり、交通外傷の要請で出動したところ脳卒中であったなど、現場へ行ってみなければ病態が不明であったり、或いは病院到着後の精密検査で診断が確定する事案に遭遇するのは日常茶飯事である。従って、日常的に重症患者の初療を担当している救急専従医でなければ、質の高い病院前救急診療など望むべくもない。また、「救急は救急部が担当すればいい。」として、何もかも救急部におんぶにだっこの病院もまた、基地病院としては不適切と言わざるを得ない。更に、ドクターヘリは一刻の猶予もない重症患者に対して迅速に治療を開始し、最適な医療機関へ搬送するためのツールであり、搬送先医療機関の選定に時間を浪費することは許されない。最寄りの最適な医療機関が手術中などの理由で受け入れ困難な場合は、直ぐさま基地病院で患者を受け入れ、治療を開始する覚悟がなければ、基地病院の資格はない。
一方、都道府県の衛生担当部局の役割は、地域住民に対して適切な病院前の救急診療提供体制を確保することであって、ただ単にドクターヘリを県に持ってくることではない。1つの医療機関に責任を持って通年の事業を任せられないのであれば、その病院はその時点で基地病院としての資質を備えていないことに他ならないのであって、基地病院としての資格がない病院をいくつか寄せ集めて輪番制を取らせれば県民に対する責任が果たせると考えるのは大きな誤りである。ドクターヘリ事業が責任を持って取り組まなければならないのは、交通事故負傷者、脳卒中や心臓発作の患者など、1分毎に命が削られている待ったなしの重症患者であり、三次救急医療そのものである。このような最高レベルの救急医療提供体制の構築に、二次病院輪番制の構想を盛り込むこと自体、行政の資質が問われている。ドクターヘリ事業に県が取り組むということは、医療機関同様、県もそれなりの覚悟を持たなければならないことを肝に銘じるべきである。
このような本質を見誤ったドクターヘリ導入が議論される背景には、「何故ドクターヘリを導入しなければならないのか?」の根本思想が十分に認識されていないことがある。ドクターヘリ事業の世界のお手本であるドイツでは、1970年当時、20,000人以上を記録していた交通事故死者数を削減するための方策を検討した結果、救急通報から15分以内に医療を開始する体制を確保するためにヘリコプター救急体制を構築した。即ち、ヘリコプターは15分以内に医療を開始するためのツールとして導入されたのである。従って、短時間内に然るべき医療機関へ搬送可能な場合は従来通りの救急車を活用すれば良いのであって、救急車では間に合わない場合に代替手段としてヘリコプターを活用するのである。また、夜間や悪天候等の理由でヘリコプターが飛行不能な場合には、ヘリコプターの代替手段として医師を乗せた車が現場へ急行する仕組みも併せて構築している。ドイツのヘリコプター救急体制の優れている点は、この数値目標を関係者が単なるお題目として唱えるのではなく、州の法律で明確に規定している点である(表1)。
従って、わが国においても、ドクターヘリ事業を誤り無く推進するためには、時間軸の中で構築されなければならない救命救急医療体制の根本思想を明確にした上で、日本版15分ルールのような法的条文を整備する必要があろう。
ドクターヘリは適切な病院前救急診療を提供するための1つのツールに過ぎず、その目的は、「助かるはずの命を助ける。」、「治るはずのものを治す。」ことである。このことを忘れてドクターヘリの導入を目的化していては、都道府県も病院関係者も地域住民に対する責任を果たしたことにはならない。
「希望のヘリ」を「失望のヘリ」にしてはならないのである。
表1