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「時間との闘い」に勝つため <毎日新聞>
2008.10.07

山武市の内装業、小川勲(64)は今年6月1日午前11時20分ごろ、同市五木田の市道をバイクで走っていた。左から来た2トントラックと衝突した。日曜日を利用して成東海岸に遊びに行き、その帰りの交通事故だった。

 小川が「あっ」と思った次の瞬間、体は宙を飛んで近くの水田に落ちた。救急車が到着したのは事故発生から約20分後。ショック状態の小川を見て消防隊員はただちにドクターヘリを要請した。

 その時、ドクターヘリは別の患者を鴨川市の亀田総合病院へ搬送し、基地の日医大千葉北総病院(印旛村)へ帰投する途中だった。ただちに変針してランデブーポイントである山武市本須賀の市立鳴浜小学校の校庭に着陸した。

 飛び出したフライトドクターの鉄慎一郎(33)は、泥だらけで救急車に収容された小川を診察した。腕の骨が折れて変形しており、血圧は低すぎて計測不可能な状態。簡易型の超音波探査装置で確認してみると腹部に血液が滞留していくのがわかった。内臓で出血が起こっていたのだ。1秒でも早い手術が必要だった。

 鉄は泥だらけの小川をヘリに乗せて離陸した。鳴浜小から北総病院までは約32キロ、12分で到着した。陸路なら2時間近くかかる道のりだ。事故から1時間足らずで小川は病院に収容され、ただちに手術が始まった。

 

 

 小川が目を覚ましたのは、病院に収容されてから10日目だった。右腕などの骨折3カ所、内臓出血、脳挫傷もあった。いわゆる多発性外傷だ。

 気付いた時、ベッドの脇には妻(67)と岩手県に嫁いでいる長女(34)と次女(33)がいた。妻は「お父さん……」と言っただけだった。

 小川はベテランの内装職人。中学を出て親方に弟子入りしてから内装の仕事一筋だ。東京ディズニーランドのシンデレラ城や霞が関ビルの仕事にも参加した。「シンデレラ城のアール(曲線)は難しかったなあ」と笑う。

 今は8人の職人を使っている。次女も小川の下で働いている職人の一人だ。事故が起こった時には千葉市で高級住宅の内装をやっていたが、目覚めた後、すぐに建設会社の社長に連絡して職人たちが仕事を続けられるようにした。

 処置が早かったことで、2カ月後には歩いて生活できるほどに症状は改善し、現在は八千代市の病院に転院し、右腕の機能回復に取り組んでいる。今月中には退院予定だ。

 「右手はうまく動かないかもしれない。でも、もう一度内装の現場に立ちたい」。小川は話す。

4月3日、富里市に住む河野令子(62)は、夫正一(65)と一緒に、自宅近くの富里中央公園を散歩していた。その時、突然、胸の痛みを感じて倒れた。

 不整脈と診断され、日医大千葉北総病院に入院、23日前に退院したばかりだった。正一が心臓マッサージをする間、近くにいた人が救急車を呼んだ。2分後に駆け付けた救急隊員は、ただちに「ヘリ要請」を判断した。令子は「心停止状態」となっていたからだ。心停止は何もしなければ1分間で生存率は10%ずつ落ちていくといわれる。

 倒れてから26分後にはヘリで駆け付けた医師によって投薬と心臓マッサージが続けられた。そして、病院まで6分間の飛行で搬送された。

 令子は25年前、医薬品製造会社のサラリーマンだった正一と結婚。専業主婦として夫を支え、大学生の長女(22)を育て上げた。定年退職した正一と、「ゆっくり旅行でもしたいね」と話していた。

 5時間の心臓手術の末、令子は命を取り留めた。正一、救急隊員、医師が交代で心臓マッサージを続けたこと、そして迅速な搬送による早期の手術が後遺症を最小限にした。

 「もう会えないと覚悟した」と正一は振り返る。4月26日には退院。除細動器を付けていることから激しい運動はできないが、ほぼ通常の生活に戻った。

 「薬のせいもあって疲れやすく、旅行に行く気にはならないけど、こうして夫と話をできることだけでも幸せです」。2人は静かな日々を送っている。

 

 

 「外傷にしても内因性の病気にしても、救命はいかに早く治療を始めるかがすべて」と同病院救命救急センター長、益子邦洋(60)は言い切る。「ヘリは、その『時間との闘い』に勝つための必須のツールだ」

 「もう一度、生きたい」という患者の思いに応えるため、今日もドクターヘリは現場に向かう。=敬称略(黒川将光、毎日新聞2008年10月7日付)