HEM-Net理事長 國松 孝次
先の第166回通常国会で、「救急医療用ヘリコプターを用いた救急医療の確保に関する特別措置法」(以下、本法という)が成立した。本法にいう「救急医療用ヘリコプター」(以下、救急医療用ヘリという)とは、その定義ぶりから見て、従来、厚生労働省が整備を促進してきた「ドクターヘリ」と同義のものであるから、これからの救急医療用ヘリの整備は、実質的には、これまでのドクターヘリ導入促進事業の延長線上において、国の定める「医療法の基本方針」に基づき、都道府県の定める「医療計画」に従って推進されることになる。
国が、国権の最高機関である国会の意思として、救急医療用ヘリの果たす役割の重要性を認め(本法第1条)、その整備の法的枠組みを示したことは、画期的な出来事である。現在、既に全国各地で、ドクターヘリ導入に向けた具体的な動きが加速しているのは、本法の大きな立法効果の表れである。
本法の制定により、わが国のヘリコプター救急普及の歴史は、新たな時代に入った。本稿では、今後の本法施行上の課題をいくつか取り上げ、それらの要点について若干の私見を申し述べ、江湖の参考に供したい。
1.都道府県の「医療計画」の策定のあり方
(1)「地域の実情」に応じた医療計画の策定
一方、「医療計画に定める事項」を規定する本法第5条1項の書きぶりを見ると、救急医療用ヘリの整備を医療計画のなかに盛り込むことは、都道府県の「責務」ではなく、その裁量に任されることとなっている。こういうことを考えると、救急医療用ヘリの整備に関する医療計画の出来具合は、「地域の実情」によって、かなり、ばらつきがでてくることが予想される。しかし、ばらつきがでること自体は、法の想定内のことで、別に構わない。むしろ、そうしたばらつきのあることは、地域住民によくわかってもらったほうがよい。
ここで最も肝心なことは、医療計画の策定に当たって、当該地域の「救急実態」(救急医師の数・配置状況、救急搬送所要時間等)を示すデータが、他の都道府県の地域のそれと比較できる形で、可能な限り詳細に地域住民に開示されることである。
そうすることによって、地域住民は、自分の都道府県の医療計画が「地域の実情」に合っているかどうかを判断することができるし、自分の都道府県の救急医療体制のレベルを、他の都道府県のそれとの比較において、認識することができる。
例えば、重篤な救急患者のために設置される「救命救急センター」への車両によるアクセス時間はどうなっているか。東京は平均約15分。それに比べ、長崎は92分、鹿児島は89分、秋田は87分、北海道は86分である。地域により、看過できない大きな差があり、それは、そのまま地域間の「医療格差」につながっている。
現状では、地域住民の多くは、こうした実態をあまりにも知らされていない。知らされないまま、自分たちの地域に、ヘリコプターでなければ救えない命が多くあることを見過ごしている。自分の都道府県の救急実態が全国比較においてどの辺に位置するのかを的確に認識した上で、救急医療用ヘリの整備の必要性をどう考えるか。この点に関する地域住民の認識と判断の成熟度が、結局のところ、救急医療用ヘリの整備促進のカギを握ることになるであろう。
なお、現在、母体搬送ないし小児搬送の制度的不備が顕在化している状況を踏まえ、救急医療用ヘリの整備を検討する場合、一般救急事案だけでなく、母体・小児搬送の地域実態も視野に入れて、制度設計を図るべきである。
(2)消防防災ヘリとの関係
本法第2条は、救急医療用ヘリの要件として、
救急医療に必要な機器を装備し、及び医療品を搭載していること。
救急医療に係る高度の医療を提供している病院の施設として、その敷地内その他の当該病院の医師が直ちに搭乗することのできる場所に配備されていること。
の2点を掲げている。冒頭でも述べたとおり、この定義に従えば、これまでのドクターヘリは、救急医療用ヘリの要件を満たす。したがって、両者は、連続するものとして扱い、「医療計画」のなかでの整備を考えていけばよい。
ところで、全国各地では、「消防防災ヘリ」の救急運用が行われているので、それと救急医療用ヘリとの関係をどのように考えるかが問題になる。
現状では、消防防災ヘリの救急運用は、医師の搭乗を伴わず、あるいは、ヘリポートに駐機する消防防災ヘリが病院に立ち寄り医師をピックアップする方式で行われている。この方式で行く限り、消防防災ヘリは、救急医療用ヘリの要件を満たさない。本法が制定された以上、各都道府県は、救急医療用ヘリの整備を目指すべきである。
したがって、消防防災ヘリの活用を検討することは、もちろん構わないが、その場合の消防防災ヘリは、救急医療用ヘリとしての要件を満たす形で運用するように制度設計をしなければならないだろう。消防防災ヘリをそのような形で活用することは、やる気になればできないことではない。ただ、その場合、他の機関の保有するヘリコプターとの連携を検討する等、とてつもなく困難な実務的調整が必要になることは覚悟すべきである。
しかし、「地域の実情」により、それが可能であると言うのであれば、そうした制度設計を排除する理由はない。
2.助成金交付事業法人の立ち上げ
本法は、病院の開設者に対し、救急医療用ヘリを用いた救急医療の提供に要する費用に充てるための助成金を交付する事業を行う法人(以下、助成法人という。)が、「政府及び都道府県以外の者から出えんされた金額」(本法第9条3項1号)を基金として設立されることを前提に、その資格要件および厚生労働大臣への登録手続等について規定している。本法は、助成金交付事業の目的等については、何も規定していないが、事業の主眼は、救急医療用ヘリの運航費用の助成である。
現在、ドクターヘリの導入が遅々として進まないのは、都道府県側のヘリ運航費用の負担能力の不足に起因するというのが、多くの都府県の実情であり、ヘリ運航費用の全額公費負担という現行の制度設計は行き詰まっている。
助成法人の制度は、すべてを「官」で賄おうという発想を変えて、「官」も「民」も参画する「公益の場」を設け、そこでヘリ運航費用の負担を多様化しながら、現行の運航費用負担制度の行き詰まりを打開していこうとするところに画期的な意義がある。助成法人の立ち上げは、この新たな制度設計の意義をよく踏まえて、進められるべきである。
助成法人を立ち上げる場合、何よりも肝心なことは、本法は何の規定も用意していないけれども、いかにして助成法人に出資する者を集め、しっかりした財政基盤を作るかということである。この点の目途が立たない限り、どのように資格要件や登録手続きを定めても、助成法人の設立は、絵に描いた餅になる。
その場合、ふたつの点が重要である。
第一に、出資をしてくれる側が出資の必要性をよく理解し、出資の大義名分を持てるように、助成法人の理念・目的を明確に示すことである。
それについては、本法の成立に尽力された政治家・行政官を中心に、検討が進められることを期待したい。ここでは、「救急医療用ヘリの活用による救命率の向上を支援すること」が、理念・目的のひとつにあげられるのは間違いのないこととして、それと並んで、助成金交付事業の重点対象を財政規模の小さい中小の県の病院開設者に向けていくことにより、「救急医療の地域格差の是正を支援すること」も理念・目的のひとつとして強調されるべきことを指摘しておく。
第二に、救急医療用ヘリの運航費用の負担に関する中長期的なグランドデザインを出資者に提示することである。
ヘリ運航費用を、「官」も「民」も参画する「公益の場」において賄っていこうとするのであれば、将来的にそこに参画する者の顔ぶれがどのようなものになり、ヘリ運航費用の負担に関する将来的な全体像がどのようなものになるかに関するグランドデザインをはっきり示すのは重要なことで、出資者も、それを見て、出資の是非を判断することになろう。 その場合、これから述べる健康保険等の適用は大きな意味を持ってくると思われる。
3.健康保険等の適用に係る検討
本法の附則第2条は、本法の施行年後3年を目途として、救急医療用ヘリを用いた救急医療の提供に要する費用のうち「診療に要するものについて」、健康保険法等の適用の必要性を検討し、必要があると認めるときは所要の措置を講ずることを、政府に課している。「診療に要するものについて」と検討の対象を限定したのは、いかなる趣旨にでるものか判然としないが、いずれにしても、救急医療用ヘリの運航費用を、どの程度保険給付の対象にするかという問題を検討の主題にしなければならないだろう。
現実を見れば明らかなように、これまでドクターヘリの普及を妨げてきた最大の隘路は、国と都道府県がその運航費用の全額を負担するという制度設計を取りながら、都道府県側の費用負担能力に問題があることである。本法は、この制度設計の不備を補うため、助成法人の制度を用意し、ヘリ運航費用の負担の多様化を図ることとした。健康保険等の適用も、この発想と軌を一にするもので、救急医療用ヘリ運用の受益者である保険関係者(保険者および被保険者)に運航費用の応分の負担を求めようとするものである。
ただ、保険適用には、解決しなければならない実務上の問題があるので、3年間の検討期間が設けられたが、ヘリ運航費用の多様化は、国・都道府県、民間等の出資者と並んで保険関係者の登場により完結することになる。
この場合、救急医療用ヘリは、患者の搬送を担うものであって、その運航費用は、「診療に要する費用」とは言えないという議論があるとすれば、その議論は当を得ない。
救急医療用ヘリは、患者搬送機能と並んで医師を迅速に救急現場に派遣する機能を有するものであり、特に後者の機能が重要視される。言うまでもなく、救急医療の場合、患者に可能な限り早期に治療を開始することが、診療全体の成否を決する重大事である。救急医療用ヘリによる医師の現場急派は、診療に密接不可分に関連する事柄であるから、その運航費用は、「診療に要する費用」そのものであると言えよう。
保険を適用するとなると、保険者はともかく被保険者に負担をかけることになり問題だという議論がでてくるだろう。しかし、被保険者の負担を最小化する工夫はできないことはない。スイスは、ヘリコプター救急先進国であるが、ヘリ運航費用を医療保険の適用により賄うことを基幹として、「パトロン制度」と称する年会費2,700円程度の小口寄付を集める制度を併設することにより、被搬送者の自己負担をゼロにしている。被保険者の負担をいかに軽減するかは、まず保険適用をしてから、検討されるべき問題である。
また、概して財政的困難に直面している各種健康保険会計に、新たな負担を課すことは不可とする議論もあり得よう。しかし、救急医療用ヘリを全国展開し、50機配備するとして、その年間運航費用は100億円。これは、国民一人当たり年間約80円の負担。医療費総額30兆円として、その0.03%の負担である。この程度の負担増は、救急医療用ヘリの整備により救急患者の救命率が飛躍的に向上することを考えれば、不当なものとは言えないのではないか。それに、ドクターヘリの活用は、医療費の削減効果があるという研究成果も、最近発表されている。救急医療用ヘリの運航費用への健康保険等の適用は、大いに前向きに検討する価値がある課題である。
以上、本法は、仔細に見ていくと、実務上の手順としては一から始めなければならないことが多いが、本法の成立を第一歩として、関係各位のご努力により、奇異なまでに遅れているわが国のヘリコプター救急の普及が飛躍的に進むことを期待している。(月刊『公明』2007年12月号所載)