日本医科大学千葉北総病院救命救急センター
益子邦洋
救命救急センターにおける実態調査の結果、交通事故や労働災害など、ケガによる死亡事例の約4割弱は防ぎ得た外傷死亡(Preventable Trauma Death; PTD)の疑いがあることが明らかにされた。診療水準に関して大きな地域間格差及び病院間格差がある一方で、重症患者の診療人数が多い施設ほどPTDの割合は減少し,治療成績が優れていたことも同時に明らかにされた。この結果を受け、重篤な外傷患者を拠点病院に集約することが関係者の間で検討されるようになり、半径50kmを15分医療開始圏とするドクターヘリが導入された。
ドクターヘリ配備の動きを強力に推進したのは、1999年に発足した認定NPO法人救急ヘリ病院ネットワーク(HEM-Net)の活動と、超党派の国会議員によるドクターヘリ特措法(2007年6月)の制定である。ドクターヘリ特措法の成立に引き続き、2008年11月20日には、ドクターヘリの全国配備を促進するための超党派国会議員連盟(超党派議連)が発足した。超党派議連は設立総会において、1.各都道府県へのドクターヘリの配備を推進するためにドクターヘリ導入促進事業の実施に必要な予算を確実に確保すること、2.ドクターヘリの導入に関する地方交付税措置を充実すること、の決議文を発表した。この決議を受け、2009年3月17日の官報に「県が負担するドクターヘリ運航費用の2分の1を、国が特別交付税で手当てする省令が総務大臣名で出され、2008年度分の特別交付税から適用することが附記された。この省令により、ドクターヘリ導入を計画する県は、僅かな県費負担でドクターヘリ事業を実施出来ることになり、ドクターヘリ全国配備に大きな弾みがついた。
超党派議連は引き続き、2009年11月18日と2010年6月9日に2度に渡って決議文を発表し、ドクターヘリの全国的配備を加速させた。この決議を受けて総務省は、2009年度分から更にドクターヘリ事業に係る財政措置を充実させた。その内容は、財政力の弱い県ほど手厚く特別交付税が交付されるようにしたもので、県費負担分の50%を最低に、段階的に措置率を上げていき、80%を上限とした。即ち、約2億円に増額したドクターヘリ事業費用のうち、県費負担は2,000万円まで圧縮されたのである。この措置により、ドクターヘリの導入により一層拍車が掛かったことは言うまでもない。2010年6月9日 、超党派議連は新規に加入した議員41名を加えて150名となった(表1)。
このように、わが国のドクターヘリ事業はこれまで、国と県、即ち“公”が担ってきたと言って良い。一方で最近、「新しい公共」の概念が提唱され、国民に広く浸透しつつある。新しい公共とは、公共サービスを市民自身やNPOが主体となって提供する考え方である。20世紀は、経済社会システムにおいて行政が大きな役割を担ってきたが、行政の一元的判断に基づく上からの公益の実施では社会ニーズが満たされなくなった。その結果、官民の役割分担の見直しが行われ、民間企業や個人と並んでNPOなどの民間セクターが重要な役割を担うことが求められている。これまでの行政により独占的に担われてきた「公共」を、官も民も参加する場で推進するのが「新しい公共」の考え方である。
命の危機に陥っている人を救おうというドクターヘリ活動は、まさに公的活動そのものであり、社会連帯と共助の精神に則り、官も民も共に参加する公益の場で推進されるのが望ましい。
その点で画期的、かつ歴史的な出来事、それが「ドクターヘリ普及促進懇談会」の結成である。2010年8 月25 日、都内において、ドクターヘリの全国的普及に賛同する大手上場企業各社の最高幹部等が一堂に会し、「ドクターヘリ普及促進懇談会」を結成するキックオフミーティングが開催された。
この懇談会の結成を呼び掛けたのは、トヨタ自動車株式会社の張富士夫会長である。同会長の呼び掛けに応じて当日参集し、本懇談会の会員に就任したのは、御手洗 冨士夫キヤノン株式会社会長、米倉弘昌住友化学株式会社会長(日本経済団体連合会会長)、渡 文明 JX ホールディングス株式会社相談役、三村 明夫 新日本製鐡株式会社会長、中村 芳夫 日本経済団体連合会副会長兼事務総長である。また、中村 邦夫 パナソニック株式会社会長、勝俣 恒久 東京電力株式会社会長、佃 和 夫 三菱重工業株式会社会長は、当日は所用により欠席したが、本懇談会の趣旨に賛同し、会員となることを承諾している。
当日の会議には、ドクターヘリの運航に当る航空会社を代表して立野良太郎朝日航洋株
式会社社長と、認定NPO法人救急ヘリ病院ネットワーク(HEM-Net)国松孝次理事長が出席し、会員に名を連ねることになった(表2)。
懇談会の会長には張会長が就任し、本懇談会は日本経済団体連合会の「関連組織」として正規に位置付けられることになり、事務局は、HEM-Net 事務局が担当することとなった。
張会長は、会議の冒頭の挨拶のなかで、『会員各位には、ドクターヘリの全国普及を図るためのオピニオンリーダーになっていただくことを期待する。』と述べられたことから、ドクターヘリ事業は、官と民からの強力な支援を得たことになる(図1)。
懇談会の規約では、目的を「ドクターヘリの全国的な普及の促進を図るため、課題を検討・把握し、普及に向けての貢献策を検討・議論し、実施する。」と定め、この目的を達成するため、次の活動を行うとしている。
1.状況把握のためドクターヘリ関連団体・組織より適宜、レクチャーを受ける。
2.経団連及び、会員企業におけるドクターヘリ普及に向けての貢献策を検討する。
3.ドクターヘリ普及に向けての貢献等について 適宜、経団連へ報告する。
4.ドクターヘリ普及に向けての貢献策の実施は、会員企業の判断で実施できる事は会員企業独断で実施する。
5.その他、本会の目的を達成するために必要な活動を推進する。
本懇談会は、今後、会員の拡充を図るとともに、年に1回程度集まり、HEM-Net から、
ドクターヘリの導入状況等に関する報告を聴く他、ドクターヘリの普及促進のための支援
活動の展開について、協議していくことになった。本懇談会の結成をもって、経済界をあげてドクターヘリの普及促進を図る体制が確立したことは、画期的なことであり、HEM-Net は、本懇談会の会長会社と協働して、本懇談会の円滑で充実した活動の確保に努めることを内外に宣言した。
ドクターヘリを活用した病院前救急診療は、まさに命の危機に陥っている人を救おうとする活動であり、本来的に、社会連帯と共助の精神に則り、官も民も共に参加する公益の場で行われるべきである。従って、救急ヘリの費用負担問題も同様であり、本来の社会連帯と共助の精神に立ち戻って考え、官も民も共に参加する公益の場において、負担を広く分散しながら、問題の解決を図らなければならない。ドクターヘリは、患者をより早く搬送するということ以上に、医師を救急現場等に迅速に派遣して、より早期に救急治療を施すことを可能にする機能を有することにおいて、救急活動全体の有効性を決定付ける重要な役割を果たすものである。わが国においては、このような機能を果たす仕組みは、従来、あまり整備されてこなかった。従来整備されてこなかったものを新たに整備しようとすれば、既存のものではない新しい考え方が求められるわけであり、「新しい公共」はまさにドクターヘリを紐解くキーワードの1つである。
医療崩壊が叫ばれている今こそ、命の地域格差を解消するドクターヘリの配備と、救急現場という非日常的な状況の中で的確な診療を提供する医師・看護師の育成は待ったなしの課題である。そのためには、HEM-Netが助成金交付事業登録法人として推進している「医師・看護師等研修助成事業」を強力に推進しなければならない。全国から、志のある医師・看護師が積極的に研修に参加されることを期待している。
(アスカ21第76号掲載論文 2010年10月25日発行)