日本医科大学千葉北総病院救命救急センター
益子邦洋
警察庁の発表によれば、2010年におけるわが国の交通事故発生件数は724,811件、負傷者数は894,281人であり、 24時間死者数は4,863人で前年に比べて51人(1%)減少した。しかしながら、飲酒運転の厳罰化にも関わらず飲酒運転による悲惨な死亡事故が後を絶たないなど、交通死亡事故情勢が厳しいことに変わりはない。国家公安委員会では、2018年を目途に、交通事故死者数を2,500人以下とすることを宣言していることから、関係者には更なる取り組み強化が求められている。
国際輸送安全データと分析グループ(IRTAD)の2010年版年次報告によれば、2009年におけるわが国の人口10万人当たりの交通事故死者数は3.85であり、韓国(12.7)やカンボジア(12.1)よりも遙かに低く、欧州先進国と肩を並べている(図1)。
IRTADのデータに含まれていないWHO統計でみても、マレーシア(24.1)、フィリピン(20.0)、タイ(19.6)、ラオス(18.3)、インド(16.8)、中国(16.5)、インドネシア(16.2)、ベトナム(16.1)、シンガポール(4.8)であり、わが国はアジア第1位の交通安全・安心国家と言える。従ってこの値を平成30年に2.3にするという政府目標は、車社会が普及してから世界の誰もが踏み込んだことのない未知の領域に挑戦することに他ならず、まさにわが国は交通安全世界一を目指していると言っても決して過言ではない。
筆者は国際学会の様々な機会を捉えてこの問題に言及してきたが、最近、アジア諸国の中でも韓国とタイがドクターヘリの導入に積極的に取り組んでいると感じている。即ち、外傷センターを含めた外傷診療体制を整備し、ドクターヘリを導入して交通事故死者数の削減に取り組み始めたのである。
韓国では米国のER(緊急救命室)に準じたシステムを採用している大病院が多く、ERは救急患者で常に溢れかえっている。その一方で、交通事故や労働災害等により生命の危険に曝された重度外傷患者が、短時間内に迅速かつ適切な診療を受けることなく死亡している。筆者の親しい外科医の言葉を借りれば、「韓国には外傷外科医は数名しかいない。」のがその理由だそうで、「防ぎ得た外傷死亡(Preventable Trauma Death; PTD)の割合は20%を超える。」という。
2009年9月20日には韓国KBSテレビの特別番組「KBS special」で、韓国におけるPTDの現状が紹介され、これを削減するための世界の取り組みとして、米国メリーランド州ボルチモア市のShock Traumaセンターや英国ロンドン市の王立ロンドン病院と共に日本医科大学千葉北総病院が紹介され、韓国における外傷診療体制ならびにヘリコプター救急体制の整備が喫緊の課題であることが強調された。
1昨年から昨年に掛け、筆者は3回韓国に招請され、ドクターヘリに関する講演を行った。即ち、2009年6月5日の第24回韓国外傷学会学術集会では「外傷診療におけるヘリコプター救急の意義」について、2010年5月20日のAjou大学国際外傷会議では「日本におけるヘリコプターを活用した外傷診療体制の整備」について、2010年12月17日の延世大学第1回Wonju(原州市)外傷シンポジウムでは「外傷診療の質向上の役割-如何にしてPreventable Trauma Deathを削減するか」について、それぞれ講演した。特にWonjuの会議では、認定NPO法人救急ヘリ病院ネットワーク(HEM-Net)の西川 渉理事が「ヘリコプター救急医療の国際的概観」について、また山野 豊理事が「日本におけるドクターヘリの現状とHEM-Netの役割」について、それぞれ講演された(図2)。
Wonjuシンポジウムは、韓国厚生省の担当官も登壇し、「韓国政府は2011年度からヘリコプター救急を実施することを決めた。年明け早々に計画書を発表し、医師や病院などの関係者から意見を聴取する。それにもとづいて3~5月に拠点病院やヘリコプター運航事業者を選定し、6~7月頃には事業を開始したい。当初は2ヵ所での運航を予定しており、そのための予算は30億ウォンを準備した。将来は2017~2020年までに韓国全土15~20ヵ所に救急ヘリコプターを配備したい」という重大発表を行った。
Wonjuシンポジウムから10日後の12月27日~29日、李康賢教授(Prof. Kang Hyun Lee)を団長とする、医師4名、厚生省担当官2名の訪問団が来日し、日本医科大学千葉北総病院(図3)、君津中央病院のドクターヘリ事業について視察し、立川の東京消防庁航空隊を訪問して消防ヘリの装備、配備、活動状況等について視察し、それぞれの施設で関係者との意見交換を行った。2011年はまさに、韓国救急医療史におけるエポックメーキングな年として永遠に刻まれることになろう。
わが国のヘリコプター救急医療はドイツから30年遅れでスタートし、今日に至るまで世界各国の関係者に数多くの教えを請うてきた。ドイツのクグラー氏やシュトルペ氏やクレテック氏やマツケアール女史、フランスのベルトラン女史、英国のアーラム氏やロッキー氏、スイスのシュトインツ氏、オーストリアのバーガー氏、オランダのバルク氏、米国のコパス氏やハットン氏やジャッジ氏やキンケード女史など、数え上げれば枚挙に暇がない。言うならば、わが国のドクターヘリ事業は、欧米先進諸国のシステムに学び、その一部を模倣し、本邦の人的・物的医療資源も検討しながら、認定NPO法人救急ヘリ病院ネットワーク(HEM-Net)が主導して独自の制度を設計してきたのである。
一方韓国では、ヘリコプター救急実施への動きが2年ほど前からあったと聞いているが、早くも実現することになったことは驚くべきことである。ヘリコプターの基地が20ヵ所の基幹病院に配備されるとすれば、その密度は韓国の国土面積から見てドイツの現状(72ヵ所)に相当する計算になる。まさに国を挙げて、「日本に追いつき、追い越せ!」と精力的に取り組んでいることが伺える。国民の命を守る仕組みを構築するために、世界各国が高いレベルで競い合うことは大いに歓迎すべきであり、わが国も負けてはいられない。
今回は紙面の関係で割愛するが、タイにおいてもヘリコプターを活用して交通事故負傷者の命を救う取り組みが既に始まっている。昨年当施設では2名の医師に対してドクターヘリ搭乗教育を実施したが、今年も数名の医師から見学実習の依頼が寄せられている。
これまで欧米諸国とオーストラリアに限られてきたヘリコプター救急が、いよいよアジア諸国にも急速に拡大する動きを見せており、中国やインドにもそうした動きが見られることは誠に喜ばしいことである。わが国のドクターヘリ事業関係者は、これまで親身になって指導してくれた数多くの世界の先達たちの恩に報いるためにも、韓国を始めとして、アジア各国が今まさに取り組もうとしているヘリコプター救急医療の実現に向けて、様々な機会に、様々な形で、惜しみない支援を送り続けなければならない。
(アスカ21 第77号掲載論文 1月25日発行)